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実写映画おそ松さんの設定について考えた

 

 

映画おそ松さん(実写)について。

考察っぽいこと。

 

※与えられている情報をアレコレこねくり回す事が楽しいのであって、作り手の意図という正解を見つけるためにやるわけではないので、ご了承ください。
なんなら「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」っていうところまで考え尽くす事が目的です。
作り手を越えていけ。

 

あと、映画を見終わったあとにこねくり回しており、それを検証し内容が合ってるかどうか、とか確認の映画鑑賞はしていません。
そのため、ちゃんと見てみたら言ってること全然違った!!!!
ってこと、ふつーにあると思います。

 

あまり真に受けず、ガセネタとしてご覧下さい。

 

 


前提。


スノ担です。
アニメや漫画は殆ど見ないけどゲームはやってて文化圏的にはオタク。

考察なんてやる時点で、脳がオタク。それはそう。


おそ松さんは当初なんかアニメやるんだなーくらいの認識でしたが、オタク友達から「藤田監督だよ!」と言われて即座に視聴決めました。幻の1話は腹抱えて笑った。

好きな回は十四松まつり。なんで?と言われると説明できない。ていうかアレを説明できない。

好みのギャグはたぶんカオス系。昔ニコニコ動画見てた頃に好きだったタグは「ここに病院を建てよう」「病院が来い」


ちなみにTwitterにて以下の流れをした上での「考え一旦まとめるか!」というブログ記事です。

 

 

 

頂いたこちらのマシュマロの方がすごいので、この方の考えまとめを私は読みたいと思っています。割と真剣に。
それはそれとして、この方の考え通りでは無いかもしれないけれど、これを受けて「なるほど!!」と考えたことのメモです。

 

 

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考えを整理する上で、作品のメタ多重構造の各層を明確に別物として線引きしてから話すと一番わかりやすいかなぁ?と思うので、まずはそこから。


そもそもメタとは。


作品でよく言われるメタ要素というと、銀魂とかであった「アニメキャラが実写化の俳優ネタをギャグとして使用する」みたいなのが例文的にありますが、あくまでメタ要素の一面です。
そもそものメタは

「ある視点の外側(あるいは異なる次元)に立って物事をみる」

ゲームでよくあるメタ要素は、ゲームの世界の外側にはプレイヤーのいる現実の世界があることを、ゲームの登場人物が理解している、というような構図です。
あとは、箱庭の世界に外側から干渉する、など。

そういう構図。

 


で、映画おそ松さん

メタ構造をただの一過性笑いネタで消費してないのがおもしろいなーと思ってるのですが。
その、各層について。

 

 

まず一番小さな箱庭は、落雷以降に始まった「6つ子がそれぞれ暴走して作ってく、自分が主演の実写映画」という劇中劇です。
その箱庭に、終わらせ師や作中の6つ子達は物語改変という干渉をします。

あの劇中劇の登場人物達は物語の中の住人であり、作中の落雷前までのキャラ達とは別の次元にいます。(本来別モノなのに、終わらせ師や6つ子達がバリバリ干渉して来てるので、境目が曖昧になってますが)
まずこの劇中劇がメタ構造の1層目。

 

 

そして作品の6つ子達に「実写って~」というセリフがあったりと、自分たちの世界の外側、つまり私たちの世界を認識しています。

Snow Manという役者や、観客がいる世界です。
これが2層目(作中)と3層目(私たちの現実世界)。


たぶんここが一番、「作品にメタネタがあった」と言われてる部分かな?と思います。
3層目の存在を把握してるくらいなんだから、そりゃ1層目に干渉だって出来るでしょうよ。

 


私が映画おそ松さん、構造がややこしくて素晴らしいな!ってテンション上がるのは
1層目はもちろん暴走の果てのトンチキ劇ですが、2層目はいわば、作中の彼らが暮らす日常世界。
それとは別に、本来の日常世界とは違う「なんか実写化映画にありそうな、壮大な設定が出てきて感動する物語になってたはずの、実写映画おそ松さん」という作品も、1層目に塗りつぶされてしまって消えたけど、本来はあったのだろうな、というのが分かること。
ループ起点である「おそ松が図書館で勉強している」とかは、本来描かれるはずだったなんか壮大で感動する実写映画にあるシーンだし、雷前までの6人の行動は全部「本来描かれるべきだった映画のお話」だし、
写真を偽造した松代が「こういうシーンだって”あったはず”」と言う、その”はず”とは、本来描かれるはずだった、なんか壮大で感動する実写映画おそ松さんのお話にはあったはず、という事なんじゃないかな?
という、1層目の裏側に、塗りつぶされてしまった本来の1層目(ぶっちゃけたぶんそんなに面白くないよくある実写映画)がチラ見えするところが最高にテンション上がります。
ややこしくて素晴らしいな。


脱線した。

 


で。


おそ松さんのお互いが兄弟として見ていない説とパーカーの説を詳しく教えて頂けますか?」
というマロを頂きまして。


この、「層が違うものは全部別物なんだ」ということを前提にしたら、伝わりやすいかな?と思ったため、前置きが長くなりました。

 


まず「お互いを兄弟として見ていない説」


これは、1層目の、落雷後の暴走してる劇中劇に限った話です。
劇中劇はそもそも全員、自分主演のオリジナル実写映画をやってるので、その映画に兄弟っていう設定がない限り、兄弟ではないのだと思います。
そう考えたきっかけは、まずお互いが名前を呼ぶことがかなり少なかったことと、ジョーカー化した一松に向かってトド松が「一松」と呼んだことでした。
通常の呼び方の「一松兄さん」ではなく「一松」と呼んだことへの違和感。
とか言って、私が声を全部聞ききれてなかった可能性は全然ありますが。

本当は円盤買ってからちゃんと検証するべき。円盤が本番。あっ韻踏んじゃった。


私が記憶してる、兄弟が名前を呼ぶシーンは、その「一松」と、刺された時におそ松がチョロ松の名前を叫ぶとこくらいです。
また、マシュマロで頂いたように兄弟間で「お前」ではなく「アンタ」と他人行儀に呼ぶ事など。

あちこちで、兄弟ではない関係性っぽい描かれ方をしており、また兄弟らしいシーンは全然ないこともあり、この劇中劇では兄弟ではない(もしかしたら相手の名前も知らない設定の可能性もある)のかな、と思います。


トド松は招待状の送り主なので、送り先である一松の名前は知っていておかしくないな、と。
おそ松は後述のようにずっと自我があるので、劇中劇の登場人物として振舞ってる間は全然呼ばないのに、チョロ松が刺された時だけ素になったかのように呼ぶ。おそ松兄さんそういうとこある。

 

 

そして、パーカーが自我説。


「パーカーと髪型が自我なのではないか」という、マシュマロ送ってくださった方のするどすぎる着眼点。天才。考察まとめて欲しい(ずっと言う)

私は「自我は全員持っている上で6人わざとハチャメチャしてる」と思い込んでいたため、これは本当に目からウロコでした。

 

そもそも作品は「この髪型とパーカーを着ていたらそれはもう6つ子である」という設定を最初に出して、それが物語の根幹にもなっています。

 

この「髪型とパーカーを着てたらSnowManも6つ子だ」と言うことは、逆に言えば
「作中でもこの髪型とパーカーを着てなかったら、それは例えキャスト通りのSnowMan本人であっても6つ子達ではなくなる」

という理屈になります。

 

この「6つ子達である」「6つ子達でない」という状態を、「(6つ子達の)自我がある」「自我がない」と表現しています。

マシュマロ頂いた方がもしその方的には用法違ったら申し訳ない。

 

パーカーだけに言及してるのは、髪型はみんな維持しているからです。
逆に髪型まで無くしてしまえば、それは作品の中では完全に別人の誰かです。
そういう設定なので。あの作品が。

 

 

6つ子の中で、チョロ松とトド松は劇中劇が始まった段階でパーカーを着なくなります。
逆に、世界観的には着替えていいし、話の展開としても脱いだついでに着替えられたはずのカラ松は、ずっとパーカーを着ています。
なので、それは意図的なのではないか?と。
意図的にパーカーを着せ続けるキャラと着替えさせたキャラがいるのではないか?ということになります。

 

 

それぞれで見ると、おそ松と十四松は完全にパーカーを着ています。1度も脱ぎません。


ではこの2人の自我はどうだったかというと。

 

おそ松は分かった上でエンドに対抗したり、刺された時に「チョロ松」と名前を呼ぶので、そのまんまの自我をもった(2層目のおそ松)状態で、1層目の劇中劇に干渉している、明確に終わらせ師と同じやり方をしている、メタキャラです。

 

十四松はそもそも落雷前後関係なく一貫して野球やることしかしてないので、十四松は十四松。ずっと十四松(2層目)です。
なんなら1層目の十四松ってキャラクター、あの映画に居た???
1層目の十四松っていうか、タイムスリップして七人の侍してたお話のどこ見ても、なんか本人の意思で作った物語にはまるで見えないけど、あれはなんだ?
十四松だから、で済ませてたけど、本人別に物語作ろうともしてなければ、あの話を続けようともしてないな。
エンドが十四松のタイムスリップに巻き込まれたんじゃなくて、十四松が落雷によってエンド(おそ松の物語に取り込まれ済)とハルの、過去に戻る設定に引きずられてタイムスリップした可能性もワンチャン……?もしかしたら因果関係が逆…?(ループや過去に戻る時点で時系列はあってないようなもの)

 

違う。今はそんな話してない。脱線した。

 

十四松がアイルビーバックした直後、侍JAPAN結成しようよー!とか話しかけて絡みに行くのが、自我を持ってちゃんと6つ子(十四松と兄弟)のままでいるおそ松の方なの、たまたまなのかわかんないけど、合致しててすごい。

あの場に十四松の兄弟はおそ松しかいない。のかもしれない。

 


対して、完全にパーカーを脱ぐのはチョロ松とトド松なので、落雷後は自我失っており、完全に劇中劇の登場人物になってしまっているのではないかと思われます。
トド松の「一松」呼びも、わざとなのかと思いました。
まぁぶっちゃけ、ブチ切れてるから呼び捨ててるっての、全然理由としてあると思いますが!!!!ここまで語っといて何ですが、ぶっちゃけね!!!

 

ただ、この2人は終わらせ師の物語を閉めようとする展開にも「あ、ああ…そうだな…」って感じで乗せられるので(エンドの3年後サラリーマン展開や、クローズの「これが”最後の”勝負やな?」など)、確かに物語に取り込まれてるんだな、という気がします(個人の感想)

 

で、残り2人がどうなんだろな?と。

 

パーカーは着ているけど、その上にコートを一枚羽織った状態の一松。
パーカーを着ているので自我はある(クローズから無理やり物語を引き戻したり)と思うのですが、完全に、ずっと、あったと言っていいのか。
判断が難しいんじゃなくて、深澤担、一松のシーンなんも思い出せない。舞い上がりすぎて客観的にシーン見れてないせいで、映ってたり喋ってた情報、なんも思い出せない。アホなのかもしれない。
ふと、もしかしてジョーカー化した時って髪型いつもの「6つ子の髪型」ではなくなってた?「いつものカツラじゃなくてすごくボサボサだった」とかだけでも、設定的には自我なくしても良さそうなんだけどな。
どうだったっけなぁ。いやー。なんも覚えてないわー(無能)

 

 

カラ松は、劇中劇の開始直後はパーカーを脱いでたので、もしかしたらあの段階では自我が無くて劇中劇に飲み込まれてたかなぁ?と。
でもそれ以降はアジトも襲撃も頑なにパーカー。
その割には劇中劇の登場人物としてずっと行動してたけど?という点は、カラ松なだけに、記憶喪失やCIAという”カッコイイ俺”に酔ってただけなのでは…?という感想。
そうすると「カラ松いつ記憶取り戻したの?」とかいう疑問もなくなりますね。別に失ってない。失ってる設定に酔ってただけ。
ただピリオドの話を引き伸ばしたのは、終わらせまいと抵抗したのか、それともカラ松だからこそ生い立ちとか家族とか本気で心配になっちゃった優しさゆえなのか、わかんないですが。

 

 

パーカーと髪型で6つ子なので、赤ん坊の写真の下りからは完全に6つ子。
世界や物語は全然第1層だけど、自我は全員第2層の6つ子。
という感じかな、と。

そういう意味では、この映画で6つ子がちゃんと6つ子でいる時間は割と少ないかもしれない。

 


また、別のタイミングですが思い至って感動した構造ポイントで
実写映画あるあるを前振りとして作り込めば作り込むほど、オチの「って、おそ松さんでそんな大層なものが出来上がるわけないよねー!」が活きてくる、そんな構図をこの映画は含んでると思うのですが。
2層目の物語自体がそういう前振りとオチでしたが。
3層目、つまり私たちの現実世界でも
・ジャニーズ主演
・6つ子なのにメンバー9人全員出演
オリキャラ投入
という、数多の人達が踏み抜いてきてもう草木一本生えてないような大地雷原だけど、でも実写映画あるあるのシチュエーションを見事なまでに配置してて、3層目すら作品の内側に巻き込んでる状態なのが、すっごいな!!!と感動してます。

 

 

 


はい。今です。
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」

 

 

 


…と、いう、色んな説を唱えただけで
実際あの映画ってこういうことで作られてるよね!!という話ではなく、
こうだったら面白いよねーー、というくらいのものです。

それっぽく言ってる人の言葉は、真に受けてはいけない。インターネットのお約束だ。


以上、実写映画おそ松さんを見て思いついた考察のまとめでした。